2019年12月15日日曜日

太宰治と聖書

キリスト教雑誌「福音と世界」2009年12月号を見ると、「キリスト教文学とは何か  太宰治生誕100年によせて」という特集が編まれていました。特集といっても2編の評論と1編の戯曲と少々物足りなさを感じますが、それはそれとして、感想を少し書いてみたいと思います。

最初の評論は「われ、山に向かひて、目を挙ぐ」と題された文章で、筆者は笠原芳光氏。太宰治とキリスト教、太宰治と聖書に関して書かれたものです。その中で、氏は「太宰ほど聖書を熟読した作家は他にいない」と述べ、その根拠の一つとして「HUMAN LOST」の一節を挙げています。

「聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなき程の鮮明さをもて、はっきりと二分されている。マタイ伝二十八章、読み終えるのに、三年かかった。マルコ、ルカ、ヨハネ、ああ、ヨハネ伝の翼を得るは、いつの日か」という一節を、笠原氏は「これは誇張ではない」と断言されるのですが、わたしにはそうは思えない。

たしかに太宰の作品には聖書からの引用も多く、聖書を題材にした「駆込み訴へ」という作品もあります。そういう意味では、聖書をよく読んでいるといえるでしょう。しかし、それは「読んでいる」に過ぎず、聖書から何らかのメッセージを聞き取ろうとするのではないような気がします。「駆込み訴へ」を読むと、それがよく分かります。

太宰治という作家は、他人の作品を換骨奪胎して自分のものにするのが実に上手な作家です。典型的なのは「走れメロス」。原作はシラーの譚詩「人質」(小栗孝則訳)で、小栗訳の言葉もそのまま使い、何箇所か自分の文章を挿入して、或いは翻訳を書き換えて書かれたのが、太宰治の有名な作品「走れメロス」なのです(詳しくは拙論「『走れメロス』素材考」、「『走れメロス』を読む」をご参照下さい)。

誤解を恐れずにいうなら、太宰が聖書を「熟読」したのは、聖書を素材として使うためだったのだとわたしは思います。随所に散りばめられた聖句も計算の上でそこに置かれているのです。太宰は優れたストーリーテラーですから、注意深く読まないとその作品の世界に没入して、あたかも読み手が太宰と同じであるかのような錯覚に陥ってしまいます。太宰治と聖書、キリスト教の関係を、わたしたちは過大評価し過ぎているのではないでしょうか。

[筆者註]
2010年に書いた文章。私が所属する教会で行われた文学講座に触発され、20名ほどの方々にプリントして差し上げたものです。私の太宰に関する基本的なスタンスは、現在でもほとんど変わっていません。

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