2019年12月28日土曜日

「西方の人」を中心とする芥川の晩年(その1)

 「西方の人」に書かれた問題の一節〈天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子〉は〈There is something in the darkness.〉から〈光のない闇〉へと向かう芥川自身の道程を象徴するものにほかならない。

 〈天上〉とは“闇の中に何かがある”と信ずる精神であり、芥川はそのような健康な精神ではなく、〈光のない闇〉とまで言わねばならぬ非合理の精神に生きようとした。そこに自分の生きる道を見つけようとした。しかし、〈光のない闇〉は、まさに〈闇〉であった。行き詰まりであった。かといって、彼はもと来た道を戻ることもできない。なぜなら、梯子は無残に折れてしまっているのだから。

 おそらく〈天上から地上へ〉下るとせず〈登る〉と書いた芥川の心情は、そこに何らかの意味を付与しようとしたに違いない。自分の進むべき道筋を、彼は〈登る〉という言葉に託したのである。しかし、それは二重の意味で挫折であった。〈登る〉方向で無残に折れた梯子は、また、〈天上〉へ下る方向でも無残に折れていたのである。ここに、芥川が〈光のない闇〉と表現した状況がきわまっている。単なる〈闇〉ではなく、〈光のない闇〉がここにある。

 また、次のように言うことも出来よう。〈天上から地上へ〉は芥川における精神的方向性を指し、〈登る〉という一語はその位相を象徴し、〈梯子〉は彼の歩んできた道程そのものを意味する。ここで〈天上〉とは、かつて手帳に“There is something in the darkness.”と書き付けることの出来た精神状況を象徴し、〈地上〉とは〈闇〉(あるいは〈地獄〉)と表現せずにはいられない精神的現実を象徴している。

 ここに象徴される芥川の道程は、“闇の中に何かがある”としてひたすら〈天上〉へと登っていった芥川が、やがて、〈闇〉でしかない〈地上〉へ向かうことによって起死回生を試みた彼の姿を明らかにしている。〈天上から地上へ降りる〉でなく〈天上から地上へ登る〉という表現がそのことを表明している。明らかに〈地上〉とは、芥川にとって降りるべきところではなく、起死回生の場として〈登る〉べきところであった。その意味で彼は作品中に〈奸計〉(福田恆存)を秘めていたというべきである。

 しかし、彼の道程は、〈無残にも折れた梯子〉でしかなかった。〈土砂降りの雨の中に傾いた〉梯子のイメージは、そのまま彼の精神像にあてはまる。〈折れた梯子〉を自覚したとき、もちろん彼の前に進むべき道はない。同時に後戻りする道もないのである。〈傾いた〉梯子を見る芥川の視点は、〈折れた梯子〉から転げ落ちながら、その方向性の原点にはどうしても行き着かない中空の闇から発せられている。そのように、前進も後退も出来ない精神状況を、彼は〈光のない闇〉と表現せずにはいられなかったのではなかろうか。

[筆者註]
これも若かりし頃の文章です。当時の私が愛読していたであろう人々の影響が随所にうかがわれますね。

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