2019年12月17日火曜日

芥川龍之介雑感 -「歯車」について

 芥川はなぜ「歯車」を書かねばならなかったのか。その必然性はどこにあるのか。

 「闇中問答」に、悪魔からなぜ書くのかと聞かれて、〈ただ書かずにいられないから書くのだ〉と答えた彼の姿を思い浮かべる必要があろう。芥川は「歯車」をも〈書かずにはいられないから〉書いたのである。そして、彼が表現せずにはいられなかったのは、「光のない闇」の前で立ち往生している彼自身の姿だった。関係妄想表現などにはそれほど思想的重みは感じられない。吉本隆明のいうように、それほど〈異常〉なことではないのである。ぐるぐると主人公をとりまく関係妄想の同心円的表現のなかで、主人公が自分のおかれた精神的位相をあきらかにしているのは、ただ一ヶ所、〈五 赤光〉の冒頭に置かれた老人との屋根裏部屋での対話のみである。それこそ芥川が「歯車」を書かずにはいられなかったメインテーマであった。評者はこの点に注目すること少なく、佐藤泰正氏にしても、この〈五 赤光〉が「歯車」でもっとも重要な一章だとされながら、〈光のない闇〉を飛び越えて関係妄想の分析へと進まれているのである。

 屋根裏部屋での老人との対話で、闇がある以上光もまたあるはずだという老人に対して、芥川(あえてここでは主人公を芥川としておく)は〈光のない闇もあるでしょう〉と答える。これこそ二人の間の跨ぎ越すことの出来ない溝、ただ一点のちがいであった。しかし、ここにこめられた内容は深い。

 ここでの老人の考えは宗教的観念そのものである。すくなくとも、将来に何ほどかの希望を抱き、明るい未来を信じようとする思考はすべて闇の中に光を見るのと同じである。今や崩壊したマルクス主義の理念もその通りである。すべて宗教的観念は〈闇の中に光〉を見いだそうとするものであるといえる。しかし、この時点の芥川は違っていた。

 そもそも芥川はその初期においては"There is something in the darkness."というノートの断片や、「羅生門」にみられるように、闇はただ闇だけでなく、その中になにかを見いださんとする姿勢があった。芥川はその何かを探して生き続けたのではないだろうか。では、その何かはいったい何だったのか。

 「歯車」の思想的問題はただこの一点にある。それはまた、芥川の全生涯を賭けた課題でもあった。この屋根裏部屋での対話の部分をどう読むかが、晩年の芥川を解する鍵である。

[筆者註]
この文章も、30年ほど前にノートにメモしたものです。それにしても、足が地についていない観念的な文章ですね。もっとも、芥川理解のスタンスは、いまでもそれほど大きくは変わっていません。

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