2019年12月21日土曜日

芥川龍之介「地獄変」の意味

 《〈人工の翼〉とは知識主義の異名にほかならなかった》(傍点原文通り)と書いたのは、梶木剛であった。しかし、わたしたちは、次のように読むことも出来よう。

 文学といえども現実的基盤を持たずには成立し得ないものである以上、歴史小説を多作していた芥川は、まさに〈人工の翼〉でもって、現実的基盤を眼下に見おろしながら、ただひたすら〈天上〉へ登ろうとした。しかし、イカロスが〈人工の翼〉を太陽に焼かれて失墜していったように、芥川もまた、〈天上〉を極めることが出来なかった。

 「地獄変」で〈人工の翼〉につかれた絵師良秀に「地獄変」図を描くに際してあれ程までに現実的体験にひたらせ、さらには自分の娘まで焼き殺させたのはなぜか。

 おそらく、そのような現実体験なしには、良秀が地獄変図を描き得ないことを、芥川は知っていた。同時に描いたあとどうなるかもである。

 娘を殺したことで、良秀は地獄変図を完成した。しかし、それは本当の意味での地獄ではなかった。なぜなら、良秀の体験した地獄は、娘が焼き殺されるという現実でしかなかったからだ。現実体験を基盤とせずには、彼の作品は成り立たなかったのだ。そして、また、その現実は、良秀にとって〈永遠にまもらんとするもの〉である娘の死によって、彼における〈地上〉的なるものを抹殺してしまったのである。

 現実がそれ自身現実である何物かを抹殺するという逆説、絵師良秀の自殺はそのような現実の〈地獄〉を見てしまったものの必然的な死でもあった。芥川もまた、絵師良秀と同じように、現実に賭けることによって、彼の文学的起死回生をはかったのである。歴史物から現代物への転移の位相がそこにある。ただ、彼にとってその道が良秀と同じ軌跡を辿らねばならなかったところに、芥川の悲劇があったのだ。

[筆者註]
この文章が書かれた時期は記録がないので、よく分かりませんが、梶木剛『思想的査証』(国文社,1971)を読んだ後であることは、確かでしょう。それにしても、公開するのが恥ずかしいくらい青臭い文章ですね。若かりし頃の思い出です。

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